蒔田定正
蒔田定正(まいた さだまさ)は、江戸時代前期の旗本で、備中浅尾藩主・蒔田広定の長男です。1591年に生まれ、若年より父と共に活躍し、大坂の陣にも従軍してその戦功を示しました。大坂夏の陣では幕府側の一員として参加し、その功績により幕府内での地位を固めました。 1636年、父の死去により家督を継承しましたが、弟の長広に3000石を分与したことで自身は8310石の旗本となりました。定正はその後、駿府の目付として政治に関わり、さらに因幡国鳥取藩の池田光仲の目付を務め、藩政の監視や報告を行いました。この役目は幕府において信頼される者に与えられる重要な任務でした。 1640年、因幡国での職務を終えて帰国途中に近江国草津で病に倒れ、50歳で死去しました。墓所は滋賀県草津市の円融寺にあります。定正の生涯は、家臣として幕府に忠誠を尽くし、政治や軍事面で活躍した人物として知られています。