永井直敬
永井直敬(ながい なおひろ)は、江戸時代中期の譜代大名であり、下野国烏山藩主、播磨国赤穂藩主、信濃国飯山藩主、武蔵国岩槻藩初代藩主を歴任しました。1664年(寛文4年)に、永井尚庸の次男として生まれ、延宝5年(1677年)に父の死去により家督を継ぎ、同年に従五位下・伊賀守に叙任されました。 貞享4年(1687年)、河内国内の所領から下野国烏山藩に転封され、元禄7年(1694年)には寺社奉行に任じられ、後に奏者番も兼任しました。元禄14年(1701年)には、浅野長矩の改易に伴い、播磨国赤穂藩主となり、3,000石加増され3万3,000石となりました。しかし、寺社奉行として幕政に参与していたため、藩政は家臣団によって行われました。 宝永元年(1704年)には若年寄に任じられ、宝永3年(1706年)には信濃国飯山藩に移封されました。さらに、宝永8年(1711年)には武蔵国岩槻藩に移封され、同年6月3日に岩槻で死去しました。享年48。跡を次男の尚平が継ぎました。 直敬は、寺社奉行や若年寄として幕政に深く関与し、複数の藩を治めた経験を持つ大名でした。その生涯は、江戸時代中期の政治と藩政の動向を理解する上で重要な位置を占めています。