小笠原忠真
小笠原忠真(おがさわら ただざね)は、江戸時代初期の大名であり、信濃国の松本藩、播磨国の明石藩、そして豊前国の小倉藩を治めた人物です。1596年、父・小笠原秀政と徳川家康の孫娘を母に持ち、戦国武将の血統として成長しました。1615年、大坂の陣で父と兄を失った忠真は、家康から小笠原家の継承を許され、信濃松本8万石を受領しました。1617年には2万石を加増されて明石藩に移り、明石城の築城や領地整備を行うとともに、二条城や江戸城の普請にも尽力しました。 1632年、忠真はさらに15万石で豊前国小倉藩へと移封され、九州における幕府の監視役を務めました。1637年の島原の乱では、長崎の防衛を担当し、幕府の信頼を獲得しました。また、細川氏など九州の大名の後見役も務め、小倉藩を幕府の西国における要石としました。 忠真は文化人としても名高く、茶道や焼物の育成に関心を示し、特に小笠原流の茶道を広め、上野焼の振興に尽力しました。1667年に71歳で没し、福岡の福聚寺に葬られました。彼の治世と文化的貢献は、九州の歴史や文化に深い影響を与えています。