本多忠晴(ほんだ ただはる)は、江戸時代前期から中期にかけての大名で、陸奥国
浅川藩第2代藩主、三河国
伊保藩主、遠江国
相良藩初代藩主を歴任しました。
寛永18年(1641年)、父・
本多忠義と母・
法光院(
森忠政の娘)の間に生まれ、幼名を
吉左衛門と称しました。
寛文4年(1664年)、兄である初代浅川藩主・
本多忠以の早世により、忠晴はその跡を継ぎ、浅川藩第2代藩主となりました。その後、
天和元年(1681年)には三河国
伊保藩に移封され、
元禄5年(1692年)には大番頭に任じられました。さらに、
元禄15年(1702年)には
奏者番兼寺社奉行に就任し、幕府の要職を歴任しました。
宝永2年(1705年)には7000石の加増を受け、
宝永7年(1710年)には遠江国
相良藩に移封され、初代藩主として1万5000石を領しました。 忠晴は
文武両道に優れた名君として知られ、領内の治安維持や産業振興に尽力しました。また、
寺社の復興や
勧農政策を推進し、領民からの信頼も厚かったと伝えられています。
正徳5年(1715年)4月12日に75歳で死去し、長男の
忠直は大和国
郡山藩主となっていたため、孫の
忠通が相良藩主を継ぎました。忠晴の墓所は
静岡県牧之原市波津の
宝泉寺にあり、現在も供養祭が行われています。