崇徳上皇
崇徳上皇(すとくじょうこう)は、平安時代末期の天皇で、後に上皇として政治に関与しましたが、1156年の保元の乱で敗北し、配流されました。1119年に誕生し、1123年に天皇に即位しましたが、在位中は摂関家の力が強く、自らの政治的影響力を発揮できませんでした。1142年に上皇となり、院政を開始しましたが、その後の政局では後白河天皇との対立が深まりました。 1156年、崇徳上皇は、後白河天皇側との間で保元の乱が勃発し、自らの勢力を取り戻すために挙兵しましたが、敗北します。この戦いで崇徳上皇の支持者である源為義や平忠正などが処刑され、崇徳上皇自身も讃岐国(現在の香川県)に流されました。 讃岐での配流生活の中、崇徳上皇は怨念を抱き、後に「日本最大の怨霊」として恐れられるようになりました。彼の怨霊伝説は、後に京都での災厄や政治的混乱が彼の呪いによるものだとされることがありました。 崇徳上皇の生涯は、院政を巡る権力闘争の象徴であり、その失脚と配流は平安末期の動乱期を象徴する出来事です。