1639年([years_ago]1639[/years_ago])
会津騒動(あいづそうどう)は、
江戸時代初期の
1639年(寛永16年)に
会津藩で発生したお家騒動です。藩主・
加藤明成(かとう あきなり)と筆頭家老・
堀主水(ほり もんど)の対立が原因で、藩政が大きく混乱しました。明成は父・
加藤嘉明(かとう よしあきら)の後を継ぎ、会津藩
40万石の藩主となりましたが、私欲に走り、家臣や領民に対して
重税を課すなどの
失政を続けました。これに対し、先代から仕える堀主水は度々
諫言しましたが、両者の溝は深まるばかりでした。ある日、明成の家臣と主水の家臣が争い、明成は主水側に非があると断じ、主水に
蟄居を命じました。納得できない主水は、家臣約
300人を率いて
若松城を出奔し、
高野山へ逃れました。この行動は幕府を巻き込む大事件となり、最終的に主水は捕らえられ処刑されました。この騒動の結果、加藤家は
40万石から1万石への大減封となり、会津藩は
徳川家光の弟・
保科正之が治めることとなりました。会津騒動は、藩主と家老の対立が藩全体を巻き込み、幕府の介入を招いた典型的なお家騒動として知られています。