1701年([years_ago]1701[/years_ago])
赤穂事件(あこうじけん)は、
江戸時代中期の
元禄14年3月14日(1701年4月21日)、
播磨国赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、
江戸城内で
高家肝煎の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に刃傷に及んだことに端を発する事件です。浅野は即日切腹を命じられ、赤穂藩は
改易となりました。その後、浅野の家臣であった
大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)を中心とする
47名の元赤穂藩士が、1702年12月14日(1703年1月30日)に
吉良邸へ討ち入り、吉良を討ち取ることに成功しました。彼らは主君の仇討ちを果たしたとして「
赤穂浪士」と称され、その
忠義心は後世に「
忠臣蔵」として語り継がれています。この事件は、武士の
忠義や名誉を象徴するものとして、日本文化に深く影響を与えました。