生年不詳-1555年
織田信友(おだ のぶとも)は、戦国時代の武将で、尾張国下四郡の守護代を務めました。彼は清洲城を本拠とし、織田大和守家の当主として勢力を築きました。当初、織田信長の父・信秀と対立しましたが、後に和睦しました。信秀の死後、信長と対立し、鳴海城主・山口教継の反乱に乗じて萱津の戦いを起こしましたが、敗北しました。その後、信長暗殺を企てましたが失敗し、1555年、信長の叔父・織田信光の策略により清洲城で討たれました。これにより、清洲織田氏は滅亡し、信長は尾張統一への道を進めました。ざっくり簡単解説!足利義澄とは?
足利義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府の第11代将軍で、10代将軍足利義材が明応の政変で追放された後、1493年に細川政元によって将軍に擁立されました。彼は、室町幕府内の権力闘争の中で将軍職に就いたものの、その治世は政権内外の混乱と対立に悩まされました。
義澄の治世は、中央政権の弱体化が進む時期であり、特に細川政元を中心とした幕府内の有力大名が実質的な権力を握っていました。義澄は、将軍としての実権を取り戻すことができず、地方の大名たちが台頭する中で、幕府の影響力はさらに低下しました。また、義材が将軍職を取り戻そうとする動きも続き、義澄の地位は安定しませんでした。
1508年、義材が再び将軍に復帰する際に、義澄は将軍職を追われ、近江国(現在の滋賀県)へ逃亡しました。彼はその後も復権を目指しましたが、1511年に病に倒れ、復帰を果たせぬまま生涯を終えました。
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