1118年-1181年(満63歳没)
平清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将で、武家として初めて太政大臣に上り詰めた人物です。父である平忠盛の跡を継ぎ、保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)で武功を立てて勢力を拡大しました。清盛は娘の徳子を高倉天皇の中宮に迎え、皇室との結びつきを強め、外戚としての地位を確立しました。また、日宋貿易を積極的に推進し、経済的基盤を確立して平氏政権の安定を図りました。しかし、その権力集中は多くの貴族や寺社の反発を招き、1179年の治承三年の政変で後白河法皇を幽閉するなど、独裁的な政治を行いました。清盛は強大な権力を保持しましたが、1181年に病で没し、その後、平氏は源氏との戦いに敗れて壇ノ浦の戦い(1185年)で滅亡します。清盛の生涯は、武士が政治の中心に立つ時代の到来を象徴しており、日本の歴史に大きな影響を与えました。ざっくり簡単解説!村上天皇とは?
村上天皇(むらかみてんのう)は、日本の第62代天皇であり、朱雀天皇の弟として946年に即位し、967年まで在位しました。彼の治世は「天暦の治」と呼ばれ、平安時代中期の最も安定した時期として評価されています。村上天皇は、摂政や関白を置かずに自ら統治を行い、父である醍醐天皇の親政を引き継いだ統治者として知られています。
村上天皇の治世では、政治が安定し、律令制度の維持と中央集権的な統治が続けられました。また、彼は倹約を重んじ、贅沢を控え、財政の健全化に努めました。村上天皇は学問や文化を奨励し、和歌や音楽の分野での活動も評価されました。
一方、村上天皇の治世中、平安時代の藤原氏による摂関政治はまだ確立しておらず、天皇自身が政務を主導していました。しかし、彼の治世の後、次第に藤原氏の力が増大し、摂関政治が本格化する時代へと向かうことになります。
村上天皇の治世は安定期とされ、特に「天暦の治」と称されるほど、平和な時代を築いた天皇として歴史に名を残しています。彼は967年に崩御し、息子の冷泉天皇が次の天皇として即位しました。
- 最終更新日: