1853年-1915年(満63歳没)
酒井忠篤(さかい ただずみ)は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した大名で、出羽国庄内藩の第11代藩主です。嘉永6年(1853年)に第9代藩主・酒井忠発の五男として生まれ、叔父・酒井忠寛の死去に伴い養子として家督を継ぎました。幕末の動乱期、忠篤は新徴組の指揮や江戸市中の取締役を任され、庄内藩の防衛を強化しました。 戊辰戦争では、忠篤は奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍に抵抗し、連戦連勝を収めますが、最終的に降伏を余儀なくされ、庄内藩は一時改易されました。その後、忠篤は罪を許され、明治時代には薩摩へ移り、西郷隆盛のもとで学びました。明治4年(1871年)にはドイツに留学し、軍制を研究。帰国後も陸軍に従事し、華族令によって伯爵位を授与されました。 忠篤は、庄内藩士らと共に西郷の思想に共鳴し、『南洲翁遺訓』の刊行にも関わり、薩摩との強い関係を築きました。彼の生涯は、幕末から明治への激動の時代における武士の新たな姿を象徴しています。大正4年(1915年)に逝去しました。ざっくり簡単解説!大正時代とは?
大正時代(たいしょうじだい)は、1912年から1926年まで続いた日本の時代で、大正天皇の治世に由来しています。この時期は、政治的・社会的に大きな変化が起き、特に大正デモクラシーと呼ばれる民主主義的な動きが進んだ時代です。
政治面では、議会政治や政党政治が発展し、普通選挙運動も活発化しました。1925年には、普通選挙法が制定され、25歳以上のすべての男性に選挙権が与えられるなど、国民の政治参加が拡大しました。
また、大正時代は第一次世界大戦(1914年-1918年)が影響を与えた時期でもあり、日本は連合国側として参戦し、戦後の国際社会での地位を高めました。戦争景気により経済が活性化した一方、戦後の不況や米騒動(1918年)などの社会問題も発生しました。
文化面では、西洋の影響を受けた自由な思想や芸術が発展し、都市部ではモダン文化が広がりました。特に文学や映画など、新しい文化が日本社会に浸透しました。
大正時代は、大正天皇の崩御後、1926年に昭和時代へと続きます。
- 最終更新日: