ざっくり簡単解説!森忠賛とは?
森忠賛(もり ただすけ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名であり、播磨国赤穂藩の第7代藩主を務めました。宝暦8年(1758年)、第5代藩主・森忠洪の三男として生まれ、幼名を槙蔵と称しました。安永9年(1780年)8月6日、兄で第6代藩主の森忠興の隠居に伴い家督を継ぎ、同年12月18日に従五位下・伊予守に叙位・任官されました。
忠賛は藩政において、質素倹約を奨励し、塩田の開発や御用金の調達、「国産塩専売仕法」による塩の専売など、現実的な藩政改革を推進しました。これにより、藩財政の引き締めを図りました。また、学問や文学にも関心を持ち、俳諧を嗜み、句集『たひすすり 旅硯』を編纂するなど、文化の振興にも努めました。
享和元年(1801年)5月23日、家督を四男の森忠哲に譲って隠居し、後に美濃守に遷任しました。天保8年(1837年)7月19日に死去しました。享年80。墓所は東京都港区東麻布の瑠璃光寺にあります。
忠賛の治世は、財政改革と文化振興の両面で赤穂藩に貢献し、その功績は後世にも評価されています。
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