ざっくり簡単解説!片岡高房とは?

片岡高房(かたおかたかふさ)は、江戸時代前期の赤穂浪士四十七士の一人で、通称は源五右衛門です。1667年、尾張藩士・熊井重次の長男として名古屋に生まれましたが、母が側室であったため、正室の子である弟に嫡男の地位を譲りました。1674年、親戚の赤穂藩士・片岡六左衛門の養子となり、翌年、9歳で家督を継ぎ、浅野長矩の小姓として仕えました。主君と同年齢であったことから深い信頼を得て、側用人や児小姓頭を務め、家禄も350石にまで加増されました。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹を命じられました。高房は長矩の遺骸を泉岳寺に葬り、その墓前で髻を切って仇討ちを誓いました。同志を募るため赤穂へ赴きましたが、殉死を主張する藩士が多く、仇討ちの同志は集まりませんでした。その後、江戸に戻り、独自に吉良義央の首を狙いましたが、最終的に大石良雄の義盟に加わる決意をしました。

元禄15年(1702年)12月14日の吉良邸討ち入りでは、表門隊に属し、屋内で十文字槍を用いて戦いました。討ち入り後、熊本藩主・細川綱利の中屋敷に預けられ、元禄16年(1703年)2月4日、切腹を命じられ、享年37。墓所は泉岳寺にあり、法名は刃勘要剣信士です。

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