1771年-1840年(満69歳没)
光格天皇(こうかくてんのう)は、第119代天皇であり、在位期間は1780年から1817年までです。父は閑院宮典仁親王、母は大江磐代で、閑院宮家から即位した最後の天皇として知られています。即位後、天明の大飢饉に際して幕府に民衆救済を訴え、米1,500俵の放出を実現させました。また、途絶えていた新嘗祭や石清水八幡宮への行幸を復活させ、朝廷の権威回復に努めました。さらに、父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしましたが、幕府の反対により実現しませんでした(尊号一件)。1817年に仁孝天皇へ譲位し、太上天皇となりました。光格天皇の治世は、幕末の尊王思想の高まりや明治維新への布石となり、近代天皇制への移行に大きな影響を与えました。ざっくり簡単解説!赤穂浪士とは?
赤穂浪士(あこうろうし)は、江戸時代中期の元禄赤穂事件で主君・浅野長矩の仇を討った47人の家臣の総称です。この事件は1701年、浅野長矩が江戸城内で高家肝煎の吉良義央に刃傷を加えたことから始まりました。浅野は即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易されました。この結果、多くの家臣が浪人となり、その筆頭家老大石良雄(大石内蔵助)が中心となって討ち入りを計画しました。
1702年12月14日、良雄率いる浪士たちは吉良邸に討ち入り、吉良を討ち取り主君の無念を晴らしました。討ち入り後、浪士たちは幕府に投降し、1703年2月4日に切腹を命じられました。彼らの行動は後に「忠臣蔵」として能や歌舞伎で取り上げられ、武士道の象徴とされました。赤穂浪士の忠義と勇気は日本文化において高く評価され、泉岳寺には浪士たちの墓があり、毎年討ち入りの日には多くの人々が訪れます。
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