1656年-1718年(満63歳没)
徳川綱條(とくがわ つなえだ)は、江戸時代中期の大名で、常陸国水戸藩の第3代藩主として知られています。1661年、讃岐高松藩初代藩主・松平頼重の次男として生まれ、伯父である第2代藩主徳川光圀の養嗣子となり、元禄3年(1690年)に家督を継ぎました。綱條は藩の財政再建を進め、また学問の奨励に取り組むことで藩政の安定を図りました。 綱條は光圀が始めた『大日本史』の編纂を引き継ぎ、その事業に熱心に取り組みました。これにより、水戸藩内では学問と教育が振興され、藩士の知識層が育成されました。この文化的な基盤は後の水戸学の発展に大きな影響を与え、幕末の尊皇攘夷思想にも影響を及ぼすこととなります。享保6年(1721年)に61歳で没し、常陸太田市の瑞竜山に葬られました。綱條の治世は水戸藩の基礎を確固たるものとし、学問と文化を支えた重要な時期とされています。ざっくり簡単解説!池田政綱とは?
池田政綱(いけだまさつな)は、江戸時代前期の播磨国赤穂藩初代藩主です。1605年に池田輝政の五男として姫路城で生まれ、母は徳川家康の娘・督姫であったため、家康の外孫にあたります。1611年、家康から松平姓を下賜され、池田家の一員として確立されました。元和元年(1615年)、兄の池田忠継が死去し、その遺領の一部として赤穂郡3万5000石を受けて赤穂藩を立藩しました。
元和9年(1623年)、従五位下・右京大夫に叙任され、寛永3年(1626年)には従四位下に昇進。藩主として赤穂藩の基盤を築く一方、元和4年(1618年)には家臣の不祥事である稲垣平馬事件に直面するなど、政治的な課題にも対応しました。しかし、1631年に27歳で早世。嗣子がいなかったため、赤穂藩は一度無嗣断絶となり、弟の池田輝興が家督を継承しました。
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