1601年-1871年(廃藩置県まで)
庄内藩(しょうないはん)は、江戸時代に出羽国庄内地方(現在の山形県鶴岡市)を中心に存在した譜代藩で、藩庁は鶴ヶ岡城に置かれました。初代藩主酒井忠勝は、1601年に徳川家康から庄内一帯を与えられ、以降、酒井氏が代々藩主を務めました。石高は当初12万石でしたが、後に14万石に加増されました。庄内藩は農業生産が豊かで、特に米の生産が盛んであり、財政的にも安定していました。また、教育にも力を入れ、藩校致道館を設立し、人材育成に努めました。幕末の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の中心的存在として新政府軍と戦い、各地で激戦を繰り広げましたが、最終的には降伏しました。1871年の廃藩置県により庄内藩は廃止され、その領地は山形県に編入されました。ざっくり簡単解説!松平斉宣とは?
松平斉宣(まつだいらなりこと)は、江戸時代後期の明石藩第8代藩主で、11代将軍徳川家斉の二十六男として1825年に生まれました。異母兄には福井藩主松平斉善がいます。1840年、養父である松平斉韶の隠居に伴い、斉宣は家督を相続し藩主となりましたが、これにより実子であった松平慶憲は排除され、母である季遠姫はその失意から憤死したとも言われています。
斉宣が藩主となったことで、明石藩の石高は6万石から8万石に増加しましたが、さらに10万石格を求めたことで、藩の財政は悪化しました。10万石格としての格式を維持するために多額の出費が生じ、財政は逼迫しました。天保15年(1844年)、斉宣は若くして病を患い、わずか20歳で世を去りました。彼には嗣子がいなかったため、先代の嫡子である松平慶憲が後を継ぎました。
斉宣の治世は短くも財政問題を抱えた時期であり、後に藩の行く末に影響を及ぼしました。彼の治世は『十三人の刺客』などの創作で話題になることもありますが、史実としての斉宣は若くして病に倒れた不運な藩主でした。
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