1797年-1829年(満32歳没)
徳川斉脩(とくがわ なりのぶ)は、江戸時代後期の大名であり、第8代水戸藩主として知られています。父は第7代藩主・徳川治紀で、幼名を鶴千代と称しました。1810年に元服し、将軍徳川家斉から偏諱を受けて斉脩と名乗り、従四位上・左衛門督に任じられました。1814年には家斉の娘・峰姫と婚姻し、1816年に家督を継ぎました。在任中には藩財政の立て直しを図り、幕府からの財政援助を受ける一方で献金郷士制度を復活させるなどの施策を講じました。しかし、1824年の大津浜事件では異国船の上陸への対応が議論を呼び、水戸藩内で攘夷思想が強まりました。斉脩は藩主として領地の防衛にも注力し、時代の変化に対応しようとしましたが、1829年に病に倒れ、後継者問題が浮上する中で亡くなりました。弟の徳川斉昭が家督を継ぎ、その後の水戸藩に大きな影響を与えました。ざっくり簡単解説!松平直之_(明石藩主)とは?
松平直之(まつだいらなおゆき)は、江戸時代中期の明石藩第5代藩主です。1768年、江戸藩邸にて4代藩主・松平直泰の長男として生まれました。1777年には元服し、父から直之の諱を授かります。1784年、父・直泰の隠居により藩主として家督を継ぎ、従五位下に叙任され左兵衛佐を名乗りました。彼の治世はわずか1年半に及び、1785年には盛岡藩主の娘である富姫と婚約しましたが、その翌年、1786年に江戸藩邸で20歳の若さで急逝しました。
直之の死後、藩主の座は弟の松平直周が継ぐこととなります。短い治世ながらも、彼の家督継承は明石藩の家系を継続させる重要な役割を果たしました。明石松平家は、越前松平家の一系であり、直之の代までに藩の内外に影響を与え続けました。
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