1627年-1871年(廃藩置県まで)
三春藩(みはるはん)は、江戸時代に存在した陸奥国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)を中心とする外様藩で、藩庁は三春城に置かれました。1627年、会津藩主加藤嘉明の三男明利が3万石で入封し、三春藩が立藩されました。翌年、明利は二本松に移り、代わって松下長綱が3万石で入封しましたが、1644年に除封されました。その後、常陸国宍戸から秋田俊季が5万5千石で入封し、以降、秋田氏が11代にわたり藩主を務めました。2代藩主盛季の時、弟の季久に5千石を分与したため、以降の石高は5万石となりました。領内は山間部が多く、度重なる凶作や飢饉に見舞われ、藩財政は困窮しましたが、馬産やタバコ栽培、養蚕業を奨励し、経済の立て直しを図りました。幕末の戊辰戦争では、当初、奥羽越列藩同盟に加わりましたが、いち早く新政府軍に降伏し、無血開城を実現しました。1871年の廃藩置県により三春藩は廃止され、その後、三春県、平県、磐前県を経て、最終的に福島県に編入されました。ざっくり簡単解説!水野忠精とは?
水野忠精(みずの ただきよ)は、江戸時代後期から幕末にかけての大名で、浜松藩第2代藩主として父・水野忠邦の後を継ぎ、のちに出羽国山形藩初代藩主となりました。1832年に生まれ、幕末期に老中として幕府の外交や内政を担いましたが、父忠邦の失脚により左遷され、弘化2年(1845年)に山形藩へ移封されました。
忠精は1862年に老中職へ復帰し、外交問題や内政改革に取り組む一方、開港後の対外折衝にも深く関与しました。また、外国船来航時の対応をはじめとする「外国御用取扱」職を兼務し、国防と外交を強化するための施策を試みましたが、幕末の混乱と権力抗争の影響を受け、1866年に老中職を辞任。その後も隠居生活を送りつつも、戊辰戦争時には徳川側に尽力し、最後まで幕府のために尽くしました。
忠精は公用日記を残しており、その中には幕末の政治情勢や外交問題への関与が詳細に記されています。忠精の活動は、譜代大名として幕府の要職に就き、幕末期の政治と外交において重要な役割を果たしたと評価されています。
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