ざっくり簡単解説!秋元永朝とは?
秋元永朝(あきもと つねとも)は、江戸時代中期から後期にかけての大名で、出羽国山形藩の第2代藩主です。1738年、上田義当の四男として生まれ、養父の秋元凉朝の後継として1768年に藩主となりました。永朝は、従五位下・摂津守に叙任され、奏者番や寺社奉行を歴任し、幕府の政務にも携わりながら藩政を統治しました。安永年間には、役職中に一時出仕停止となるなどの困難も経験しましたが、再び但馬守として藩政に復帰し、藩内の安定化に努めました。
1783年に山形藩内の村山郡で凶作が発生し、翌年の天明の大飢饉では米騒動や打ちこわしが起こるなど、領内の厳しい状況に対して藩主としての責務を果たしました。永朝はまた、文化面にも深い関心を寄せ、将棋を趣味とし、名人・九代大橋宗桂の弟子となるほどの腕前でした。これは彼の武士としての一面とともに、文化人としての側面をも象徴しています。1810年に73歳で没し、その後は五男の秋元久朝が家督を継ぎました。永朝の治世は、藩内外での影響力や文化的才能により、山形藩の基盤強化に大きく寄与したとされています。
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