1718年-1756年(満39歳没)
伊達宗村(だて むねむら)は、江戸時代中期の仙台藩第6代藩主です。1720年、先代藩主伊達吉村の次男として生まれました。幼少時から父の指導を受け、藩主としての教育を受けて育ちました。吉村の隠居に伴い、宝暦8年(1758年)に藩主に就任し、仙台藩の政務を担いました。 宗村は父の政策を引き継ぎ、藩の財政改革や経済の発展に取り組みました。新田開発や治水工事を継続し、農業の生産力向上に努め、藩内の経済基盤をより強固にしました。また、宗村の治世では、幕府との良好な関係を維持し、藩の地位を安定させました。 彼はまた、文化や学問の振興にも関心を示し、藩校の充実を図るなど、教育の支援を行いました。宗村の治世は、仙台藩にとって安定した時期となり、藩の繁栄に貢献しました。宝暦6年(1756年)、39歳で死去し、その後は長男の伊達重村が藩主の座を継ぎました。ざっくり簡単解説!秋元凉朝とは?
秋元凉朝(あきもと すけとも)は江戸時代中期の大名であり、武蔵国川越藩、のちに出羽国山形藩の藩主として知られています。1717年に生まれ、養父である秋元喬求の隠居に伴い、1742年に川越藩の藩主となりました。彼は政治においては奏者番や寺社奉行を務め、1747年には西の丸老中に就任し、朝鮮通信使の来訪時には各大名への朱印状発給を担当するなど、幅広く活躍しました。
しかし、田沼意次との対立が原因で、1764年に老中職を辞し、1767年には山形藩への転封が命じられました。これが田沼からの報復とみなされることもありました。1768年には隠居し、1775年に没しました。秋元凉朝の政治活動は田沼時代の背景と複雑に絡み合い、波乱に満ちたものでした。
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