7世紀末 - 1871年(廃藩置県まで)
肥前国(ひぜんのくに)は、現在の佐賀県および長崎県(壱岐・対馬を除く)に相当する地域を領域とした令制国で、西海道に属していました。7世紀末までに肥国を分割して成立し、国府は現在の佐賀県佐賀市大和町に置かれました。一宮は與止日女神社(佐賀市)や千栗八幡宮(三養基郡みやき町)とされ、古代から信仰の中心地として栄えました。肥前国は有明海や玄界灘に面し、海上交通の要衝として重要な役割を果たし、また、農業や漁業も盛んでした。中世には少弐氏や松浦氏などの武士団が割拠し、戦国時代には龍造寺氏や鍋島氏が台頭しました。江戸時代には佐賀藩、平戸藩、大村藩、島原藩などが置かれ、幕末までその体制が続きました。1871年の廃藩置県により佐賀県と長崎県に分割編入され、現在も歴史的遺産や文化が多く残り、観光地としても親しまれています。ざっくり簡単解説!堀田正亮とは?
堀田正亮(ほったまさすけ)は、江戸時代中期の大名で、出羽国山形藩と下総国佐倉藩の藩主を務めました。1712年に誕生し、堀田正武の長男として旗本に加わった後、山形藩の家督を継ぎました。正亮は1731年に従五位下・相模守に任じられ、藩政では優れた統治力で知られます。寺社奉行や大坂城代などの役職も歴任し、1745年には老中に任命され、伊達家の内紛を調停するなど政務を主導しました。翌年に佐倉藩に移封され、佐倉で堀田家の基盤を確立しました。
正亮は、調整力を活かし藩の安定に貢献し、1760年には1万石を加増される功績を残しました。1761年に50歳で没するまで、彼の政治手腕と堀田家の発展は江戸幕府と地方の支えとして重要な役割を果たしました。
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