7世紀末 - 1871年(廃藩置県まで)
越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の令制国の一つで、北陸道に属し、現在の富山県全域に相当します。7世紀末、越国(こしのくに)が越前国、越中国、越後国に分割されて成立しました。国府は現在の高岡市伏木に置かれ、国分寺も同地に建立されました。一宮は射水神社(高岡市)とされ、古代から信仰の中心地として栄えました。越中国は、日本海に面し、富山湾や肥沃な平野を有し、農業や漁業が盛んでした。また、立山信仰の中心地としても知られ、多くの修験者や参拝者が訪れました。戦国時代には、神保氏や佐々成政などの武将が支配し、後に前田氏の統治下に入りました。江戸時代には、加賀藩の支藩である富山藩が置かれ、前田氏が統治しました。1871年の廃藩置県により富山県に編入され、現在も歴史的遺産や文化が多く残り、観光地としても親しまれています。ざっくり簡単解説!白河騒動とは?
1692年(今から333年前)
白河騒動(しらかわそうどう)は、江戸時代中期の1692年(元禄5年)に陸奥国白河藩で発生したお家騒動です。藩主・松平忠弘(まつだいら ただひろ)の後継者問題が原因で、家臣団が二派に分かれて対立しました。忠弘の長男・鶴千代(後の主税清照)は夭折し、次女・長福姫の婿養子として松平乗守(まつだいら じょうしゅ)を迎えましたが、その子・仙千代も夭折し、長福姫も半年後に死去しました。このため、家督継承が不安定となり、家臣団は忠弘の孫である斎宮(後の左膳忠雅)を支持する派と、乗守を支持する派に分かれました。最終的に、幕府は家老二名を遠島流罪とし、忠弘は10万石に減封の上、山形藩に転封となりました。この騒動は、藩主の後継者問題が家臣団の分裂を招き、幕府の介入を招いた典型的なお家騒動として知られています。
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