1569年-1647年(満78歳没)
阿部正次(あべ まさつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名で、徳川家康から徳川家光までに仕えた人物です。1569年、阿部正勝の長男として三河国で生まれ、関ヶ原の戦い後に武蔵鳩ヶ谷藩をはじめ、大多喜藩、小田原藩、そして岩槻藩と領地を転封しました。 正次は家康の信頼を受け、慶長5年(1600年)には書院番頭に任命され、その後も武蔵国内で5000石の加増を受け、大名の地位を築きました。また、大坂の陣では徳川秀忠に従軍し、戦後はその功績を評価されて相模小田原藩での5万石の領地が与えられました。その後、大坂城代として西国大名の監視役も担い、幕府の安定に貢献しました。 晩年には家督を息子・阿部重次に譲り、正保4年(1647年)に大坂城で死去しました。正次の生涯は、江戸幕府成立期の重要な役職を歴任し、阿部家の基礎を築いたとされる存在です。ざっくり簡単解説!加藤明成とは?
加藤明成(かとうあきなり)(1592年~1661年)は、江戸時代初期の大名で、父・加藤嘉明の後を継いで会津藩の2代藩主となりました。明成は40万石の所領を引き継ぎ、若松城の改修や領内整備に尽力しましたが、藩政において多くの問題に直面します。特に家臣の堀主水との対立が激化し、「会津騒動」と呼ばれる内部対立に発展しました。堀が反発して出奔した際には江戸幕府をも巻き込む事態となり、最終的に堀とその一族は処刑されました。この一連の事件や、藩内の苛烈な統治方針が原因で、会津藩は財政的にも疲弊します。
1643年、明成は藩の返上を幕府に申し出て了承され、加藤家は会津藩の所領を失いましたが、幕府の特別措置で息子・加藤明友が石見吉永藩1万石を与えられ家名再興を果たしました。明成はその後、隠居して静かに余生を送り、1661年に没しました。
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