1815年-1860年(満45歳没)
井伊直弼(いい なおすけ)は、江戸時代後期の大老で、近江彦根藩の第15代藩主でした。彼は幕末の動乱期において日米修好通商条約に調印し、日本の開国を推進しましたが、国内の反対勢力と激しく対立しました。この対立の中で安政の大獄と呼ばれる弾圧を実施し、尊王攘夷派を厳しく取り締まりました。特に、攘夷を唱える勢力や公家の反発を抑えようとした彼の手法は強権的とされ、後に批判の的となりました。その後、1860年に桜田門外の変で水戸藩浪士らによって暗殺され、その死は幕府の権威に大きな影響を及ぼしました。彼の死後、幕府はより柔軟な外交政策に転換せざるを得なくなり、結果的に幕末の大きな転換点となりました。井伊直弼の政策やその最期は、幕府の衰退と新時代への移行を象徴する出来事として歴史に深く刻まれています。ざっくり簡単解説!彦根藩とは?
彦根藩(ひこねはん)は、近江国(現在の滋賀県彦根市)に存在した藩で、藩庁は彦根城に置かれていました。藩の設立は1600年で、初代藩主は井伊直政(いいなおまさ)です。直政は豊臣秀吉に仕えた武将であり、関ヶ原の戦いでの功績により、この地に封じられました。
彦根藩は、当初は15万石でしたが、後に加増されて30万石に達し、譜代大名の筆頭として幕府に対して強い影響力を持ちました。藩主は代々井伊氏が務め、特に第14代藩主井伊直弼(いいなおすけ)は、幕末の大老として知られています。直弼は日米修好通商条約に調印し、日本の開国を推進しましたが、安政の大獄と呼ばれる弾圧を行ったため、反発を招き、1860年に暗殺されました。
藩は明治時代の廃藩置県により消滅し、彦根市として滋賀県に編入されました。彦根藩は、幕末の動乱の中で重要な役割を果たし、その歴史は今でも地域の文化や伝統に影響を与えています。
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