1583年-1603年(満20歳没)
武田信吉(たけだ のぶよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名で、徳川家康の五男として天正11年(1583年)に浜松で生まれました。幼名を福松丸といい、母は甲斐武田氏一族の養女である下山殿(於都摩の方)でした。信吉は幼少期から家康のもとで養育され、武田家の名跡を継ぐことを許され、武田信吉として甲斐武田氏の再興を期待されました。 家康の関東移封後、信吉は下総国小金城3万石を与えられた後、佐倉城10万石、さらに常陸国水戸25万石に加増され、徳川家の一翼を担いました。しかし、慶長8年(1603年)、わずか20歳で病に倒れ、子もなく若くして死去したため、武田家は再び断絶することとなりました。彼の早逝は徳川家にとっても惜しまれるものであり、茨城県那珂市の常福寺に墓が残されています。ざっくり簡単解説!高須藩とは?
高須藩(たかすはん)は、江戸時代に美濃国(現在の岐阜県海津市)に存在した藩で、藩庁は高須陣屋に置かれていました。藩の設立は1600年で、関ヶ原の戦い後に入封したのは徳永寿昌で、石高は5万673石でした。寿昌は高須城を整備し、藩政を確立しましたが、1628年に改易となり、次に小笠原家が2万2千石で藩主を務めました。
その後、1700年からは松平家が藩主となり、3万石に加増されました。特に、松平義行やその子の松平義建は藩の発展に寄与し、幕末には高須四兄弟と呼ばれる人物たちが生まれ、彼らは幕末の動乱期に活躍しました。
高須藩は、幕末期に重要な役割を果たし、特に松平義建は戊辰戦争において藩主として指導的立場にありました。また、藩校「日新堂」を設立し、学問の奨励にも力を入れました。藩は1871年に廃藩置県により消滅し、高須の歴史と文化は地域に影響を与え続けています。
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