1632年-1653年
出羽丸岡藩(でわまるおかはん)は、江戸時代初期に出羽国田川郡丸岡(現在の山形県鶴岡市丸岡)に存在した外様藩で、藩庁は丸岡城に置かれました。1632年、肥後熊本藩主であった加藤忠広が改易され、庄内藩主酒井忠勝の預かりとなった際、忠広には1万石が与えられ、丸岡藩が成立しました。しかし、藩としての支配機構や支配権はほとんどなく、実質的には庄内藩が藩政を掌握していました。忠勝は忠広を哀れみ、毎年米100俵を支給していたと伝えられています。1646年、忠広の居所および家臣の屋敷が全焼する火災が発生しましたが、京から建物を取り寄せて再建されました。1653年、忠広が死去すると、丸岡藩は廃藩となり、その領地は幕府領および庄内藩領となりました。ざっくり簡単解説!重原藩とは?
重原藩(しげはらはん)は、江戸時代に三河国(現在の愛知県刈谷市)に存在した藩で、藩庁は重原陣屋に置かれていました。藩は1792年に設立され、初代藩主は板倉勝尚で、領地は2万8000石でした。
重原藩は、もともと福島藩の一部であり、1851年に版籍奉還が行われ、板倉勝達が藩知事に任命されました。勝達は行政機構の整備や藩校「養正館」の設立を進め、教育の普及に努めました。この結果、藩内の教育水準が向上しました。
しかし、1871年の廃藩置県によって重原藩は消滅し、その後重原県、額田県を経て最終的に愛知県に編入されました。重原藩は短命でしたが、その存在は地域の歴史に大きな影響を与えました。
- 最終更新日: