1830年-1871年(廃藩置県まで)
天童藩(てんどうはん)は、江戸時代後期に出羽国村山郡天童(現在の山形県天童市)を中心に存在した外様藩で、藩庁は天童陣屋に置かれました。藩主は織田信長の次男・織田信雄の子孫である織田氏が務めました。1767年、織田信邦が明和事件に連座し、上野国小幡藩から出羽国高畠藩(現在の山形県高畠町)に転封されました。その後、1830年に藩庁を高畠から天童に移し、天童藩が成立しました。藩の石高は2万石で、財政難に悩まされていました。幕末には、家臣の内職として将棋の駒作りを奨励し、現在の天童市が「将棋の町」として知られる基礎を築きました。戊辰戦争では、当初新政府軍に協力しましたが、庄内藩の攻撃を受けて城下町が焼き討ちに遭い、その後奥羽越列藩同盟に加盟しました。最終的に新政府軍に降伏し、1871年の廃藩置県により天童藩は廃止され、その領地は山形県に編入されました。ざっくり簡単解説!布市藩とは?
布市藩は、江戸時代初期の1600年(慶長5年)から1608年(慶長13年)まで、越中国(現在の富山県)に存在した藩です。藩の設立にあたっては、土方雄久が徳川家康から越中国新川郡に1万石を与えられ、藩が成立しました。布市は、信濃道と飛騨道が交差する交通の要所として知られ、歴史的にも重要な位置にありました。
藩主の土方雄久は、領地の統治や発展に力を入れましたが、わずか8年間の歴史の後、土方氏は能登国の石崎藩へ転封されることになり、布市藩は廃藩となりました。その後、藩の跡地には布市城が築かれ、陣屋も設置されましたが、藩の廃止に伴い、城も廃城となりました。
布市藩の短い歴史にもかかわらず、藩はその地域の文化や経済に影響を与え、特に交通の要所としての役割を果たしました。現在、布市藩の跡地には歴史的な名残が残っており、地域の観光名所としても知られています。
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