1853年-1910年(満58歳没)
徳川昭武(とくがわ あきたけ)は、幕末から明治時代にかけて活躍した最後の水戸藩主です。父は第9代水戸藩主・徳川斉昭、異母兄に第15代将軍・徳川慶喜がいます。1853年、江戸で生まれ、幼名を余八麿と称しました。1867年、14歳の時に将軍慶喜の名代としてパリ万国博覧会に参加し、フランスをはじめとするヨーロッパ各国を歴訪しました。この経験は彼の国際的視野を広げる契機となりました。帰国後、1869年に水戸藩主となり、版籍奉還により藩知事に就任しましたが、1871年の廃藩置県で職を辞し、東京に移住しました。その後、再びフランスに留学し近代的知識を習得しました。帰国後は千葉県松戸市に戸定邸を建設し、隠居生活を送りました。趣味は多彩で、写真撮影や園芸、自転車などを楽しみました。1910年、東京で没しました。彼の生涯は、幕末から明治への激動の時代を象徴するものであり、国際的視野と近代化への関心を持った人物として評価されています。ざっくり簡単解説!喜多見藩とは?
喜多見藩は、江戸時代に武蔵国多摩郡喜多見(現在の東京都世田谷区)に存在した藩です。藩庁は喜多見城(喜多見陣屋)に置かれ、藩主は喜多見重政が務めました。喜多見氏は元々、武蔵江戸氏の後裔であり、江戸氏の分家にあたります。
藩は1686年に設立され、初代藩主である重政の時代には石高が1万石から2万石に増加しました。しかし、元禄2年(1689年)に重政の一族が関与した刃傷事件により、藩は改易されて廃藩となりました。その後、喜多見の地は幕府直轄領となり、喜多見氏の家臣たちは浪人となるか、他の藩に仕官することとなりました。
現在、喜多見の地には喜多見氏の墓所である慶元寺があり、その周辺には歴代藩主や家臣たちの墓が存在します。このように、喜多見藩は東京23区内に存在した数少ない藩の一つとして、地域の歴史に名を刻んでいます。
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