7世紀 - 1871年(廃藩置県まで)
対馬国(つしまのくに)は、現在の長崎県対馬全域を領域とした令制国で、西海道に属していました。7世紀に設置され、古くは『魏志倭人伝』に「対馬国」として記載されるなど、古代から日本と大陸を結ぶ海上交通の要衝として重要視されてきました。国府は現在の厳原町(いづはらちょう)に置かれ、国分寺も同地に建立されました。対馬国はその地理的特性から、外交や防衛の最前線としての役割を果たし、特に朝鮮半島との交流が盛んでした。江戸時代には対馬藩が設置され、宗氏が藩主として統治し、朝鮮との外交窓口としての役割を担いました。1871年の廃藩置県により長崎県に編入され、現在も歴史的遺産や自然景観が多く残り、観光地としても親しまれています。ざっくり簡単解説!白河新田藩とは?
白河新田藩(しらかわしんでんはん)は、江戸時代中期に白河藩の支藩として設立され、奥平松平家の松平忠尚が2万石を分与されたことで始まりました。白河藩主であった松平忠弘が、新田(新しく開発された田地)を分与したことにより成立しましたが、後に忠尚は健康問題を理由に桑折藩(福島県桑折町)へ移され、白河新田藩は廃止されました。
白河新田藩の短い歴史の中では、藩主が代々領地を支配し、幕府の定めた年貢制度に基づき、財政を管理していました。藩自体は比較的小規模でしたが、奥平松平家が管理していたことから親藩として幕府との密接な関係を維持しました。後に桑折藩としての歴史を歩み始めるため、白河新田藩は短命な存在となりましたが、その経緯が幕府の政策や領地管理の一環として重要な事例です。
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