1602年-1871年(廃藩置県まで)
久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代に出羽国(現在の秋田県)を中心に存在した外様藩で、藩庁は久保田城に置かれました。初代藩主佐竹義宣は、関ヶ原の戦い後の1602年に常陸国から転封され、久保田藩を立藩しました。表高は約20万石、実高は約40万石とされ、家格は大広間詰の国持大名でした。藩内では、鉱山開発や林業、農業の振興に努め、特に秋田杉の生産で知られました。また、藩主自らが学問や文化の奨励に力を入れ、三代藩主佐竹義処は藩史編纂局「秋田史館」を創設し、八代藩主佐竹義敦(曙山)は「秋田蘭画」を創始しました。幕末には、当初奥羽越列藩同盟に参加しましたが、尊皇攘夷派の影響もあり、同盟を離脱し新政府軍に協力しました。戊辰戦争では、秋田戦争で孤軍奮闘し、最終的に新政府軍の勝利に貢献しました。1871年の廃藩置県により久保田藩は廃止され、その領地は秋田県として再編されました。ざっくり簡単解説!黒田長邦とは?
黒田長邦(くろだながくに)は、江戸時代中期の筑前国秋月藩第5代藩主です。1722年に第4代藩主・黒田長貞の長男として江戸で生まれ、母は上杉綱憲の娘・豊子でした。幼少期から家中の教育を受け、元文2年(1737年)に元服し、従五位下・河内守に任じられましたが、宝暦5年(1755年)には甲斐守に改めました。
1754年に父の死去により藩主となり、秋月藩の家督を継ぎました。長邦は藩主として藩政を担う中で、江戸幕府に対する重要な役割を果たし、主君徳川吉宗のもとで忠勤に努めました。しかし、在任中には特筆すべき藩政の改革や施策は見られず、比較的平穏な時代が続きました。1762年に41歳で死去し、藩主の座は長男の黒田長恵が継ぎました。
長邦は、秋月藩主として家中をまとめ、その後の藩の持続的な発展の礎を築いた人物として評価されています。
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