1773年-1816年(満42歳没)
徳川治紀(とくがわ はるとし)は、江戸時代後期の常陸国水戸藩第7代藩主で、藩政改革に尽力した人物です。父は徳川治保、母は一条溢子で、幼名を鶴千代と称しました。1805年に藩主を継ぎ、藩の財政再建や軍備強化に取り組みました。学者の藤田幽谷や青山拙斎を登用し、藩校「弘道館」を整備して人材育成を推進しました。また、外国船の出没が増える中で海防強化も重視しましたが、健康を損ね1816年に急逝しました。跡を継いだのは長男の徳川斉脩であり、治紀の政策は後に三男の徳川斉昭にも影響を与えました。治紀の施策は水戸藩の教育水準や軍備の充実をもたらし、藩士に尊王攘夷の思想を根付かせ、幕末の政治的な動向に大きな影響を与える基盤を築いたとされています。ざっくり簡単解説!鳥居忠恒とは?
鳥居忠恒(とりい ただつね)(1604年~1636年)は、江戸時代初期の出羽国山形藩第2代藩主で、父の鳥居忠政の後を継いで藩主となりました。しかし、生来の病弱さから幕府の公務にはほとんど関与できず、家臣団内でも家督継承を巡る問題が浮上しました。忠恒は正室・菊との間に子がいなかったため、異母弟の忠春に継がせるのではなく、新庄藩の同母弟である戸沢定盛に家督を託す意思を示しました。
この選択が幕府の規定に反するとされ、幕府の大政参与井伊直孝からの批判を受け、最終的に鳥居家は所領没収という厳しい処分を下されました。しかし、鳥居家の祖父・鳥居元忠の功績が考慮され、弟の忠春は信濃高遠藩3万石を与えられ、鳥居家は存続を許されました。忠恒の決断と幕府の対応は、鳥居家の命運を大きく左右することとなり、その波乱の生涯が歴史に残る結果となりました。
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