1662年-1681年
岩沼藩(いわぬまはん)は、江戸時代前期に陸奥国名取郡岩沼(現在の宮城県岩沼市)を中心に存在した外様藩で、藩庁は岩沼城に置かれました。藩主は田村氏で、初代藩主田村宗良は、仙台藩初代藩主・伊達政宗の三男である伊達忠宗の三男として生まれ、母は政宗の正室・愛姫です。愛姫の実家である田村家は、1590年の小田原征伐に参陣しなかったため改易されましたが、忠宗は母の遺言により、宗良に田村家を再興させました。1653年、宗良は栗原郡岩ヶ崎に1万石を与えられ、1660年には2万石を加増されました。1662年、名取郡岩沼に転封され、岩沼藩が成立しました。しかし、1671年の伊達騒動(寛文事件)に際して宗良は指導的役割を果たせなかったため閉門に処されましたが、翌年に罪を許されました。宗良の死後、次男の田村建顕が跡を継ぎましたが、1681年に一関藩へ転封されたため、岩沼藩は廃藩となりました。ざっくり簡単解説!高槻藩とは?
高槻藩(たかつきはん)は、摂津国に位置する藩で、1615年に内藤信正によって設立されました。藩庁は高槻城に置かれ、最初は4万石の石高を持っていましたが、江戸時代の中で石高は変動しました。藩は元和年間に成立し、歴代藩主は主に譜代大名から構成されました。
藩主としては、内藤家から始まり、松平家、岡部家と続きました。その後、永井家が藩主を務めることになり、永井直清が高槻藩の基礎を築きました。藩の歴史の中で、永井家は幕末まで続くことになります。
高槻藩は、江戸時代中期には経済的にも発展し、特に農業や商業の振興に努めました。しかし、藩政の中で経済的な問題や内乱も発生し、藩の財政は厳しくなることもありました。最後の藩主、永井直諒は戊辰戦争の際に新政府に従ったものの、藩の運営は困難を極めました。
1869年、藩は版籍奉還を行い、1871年の廃藩置県により高槻県となり、その後、兵庫県に編入されました。藩の城跡は現在、高槻市の名所として整備されており、歴史的な遺産として保存されています。
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