ざっくり簡単解説!長禄・寛正の飢饉とは?
長禄・寛正の飢饉(ちょうろく・かんしょうのききん)は、室町時代中期の長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った大規模な飢饉です。この期間、全国的な旱魃や台風、虫害、疫病などの自然災害が相次ぎ、農作物の収穫が大幅に減少しました。
特に京都では、寛正2年(1461年)正月時点で数万人の乞食が集まり、最初の2か月で約8万2千人が餓死したと伝えられています。
この深刻な状況にもかかわらず、室町幕府の将軍・足利義政は花の御所の改築に熱中し、民衆の救済に消極的でした。
一方、時宗の僧・願阿弥は義政の許可を得て、六角堂の南に施行所を設け、粟粥などを流民に施し、連日8千人規模の慈善活動を行いました。
しかし、餓死者は減らず、ひと月足らずで施行所を撤収し、四条五条の橋下に大量の死体を埋め、鴨川の河原に塚を築いて供養しました。
この飢饉は、6年後に発生する応仁の乱の一因ともなり、室町時代の社会不安を深刻化させました。
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