ざっくり簡単解説!酒井忠発とは?
1812年-1876年(満65歳没)
酒井忠発(さかい ただあき)は、江戸時代後期の大名で、出羽国庄内藩の第9代藩主として知られています。文化9年(1812年)9月13日、8代藩主・酒井忠器の長男として江戸で生まれました。文政9年(1826年)12月に従五位下摂津守に叙任され、天保4年(1833年)12月には従四位下に昇進しました。天保13年(1842年)4月14日、父の隠居に伴い家督を継ぎ、藩主となりました。
藩主在任中、忠発は藩政改革や軍備強化に努めました。嘉永2年(1849年)からは洋式砲術の訓練や海岸警備の強化に取り組み、嘉永6年(1853年)には品川台場の警備を担当しました。安政6年(1859年)9月には蝦夷地の警備を命じられ、翌年には蝦夷地に出兵し、殖民を奨励しました。
しかし、長男の忠恕が早世したため、文久元年(1861年)8月6日に弟の忠寛に家督を譲って隠居しました。その後も幼少の藩主を支えるため、政治に関与しました。明治9年(1876年)2月12日に65歳で死去しました。
また、天保10年(1839年)2月、現在の東京都墨田区錦糸町付近で釣り上げられた鮒の魚拓「錦糸堀の鮒」が日本最古の魚拓とされ、忠発が釣り上げたものとされています。
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