ざっくり簡単解説!酒井忠器とは?

酒井忠器(さかい ただかた)は、江戸時代後期の大名で、出羽国庄内藩の第10代藩主として知られています。寛政2年(1790年)2月18日、第9代藩主・酒井忠徳の次男として江戸で生まれました。享和3年(1803年)に従五位下摂津守に任じられ、文化2年(1805年)9月に家督を相続し、藩主となりました。文化4年(1807年)には従四位下に昇進し、同年6月に松平信明の娘・亀代姫を正室に迎えました。

藩政においては、文化8年(1811年)に中老の水野重栄らを起用し、酒田の豪商・本間光道を政務に参与させて新政を行いました。倹約令を施行し、緊縮農政の徹底を図るとともに、文化13年(1816年)には藩校・致道館を移転・拡充し、教育の振興に努めました。

天保11年(1840年)11月、幕府より越後長岡への転封を命じられましたが、領民の強い反対運動(天保義民事件)により、翌年7月に転封命令は撤回されました。この事件は、領民が藩主を慕い、転封阻止のために行動したことで知られています。

天保13年(1842年)4月、忠器は隠居し、左兵衛督の官位を授かりました。嘉永7年(1854年)3月20日に65歳で死去し、跡を長男の酒井忠発が継ぎました。

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