生年不詳-1591年
織田信安(おだ のぶやす)は、戦国時代の武将で、尾張国上四郡の守護代として岩倉城を拠点に勢力を築きました。彼は織田伊勢守家(岩倉織田氏)の当主であり、織田信長の父・信秀の妹を妻とするなど、織田一族内で重要な位置を占めていました。当初、信長とは友好関係にありましたが、信秀の死後、所領問題や信長の弟・信行(信勝)との内紛により対立が深まりました。1556年の稲生の戦いでは信行側に加担し、信長と敵対しました。その後、長男・信賢を廃嫡し、次男・信家を後継にしようとしたため、信賢により岩倉城から追放されました。信賢も1558年の浮野の戦いで信長に敗れ、岩倉織田氏は滅亡しました。信安は美濃の斎藤氏に仕えましたが、後に信長に許され、晩年は安土の摠見寺の住職となり、1591年に没しました。ざっくり簡単解説!足利義澄とは?
足利義澄(あしかが よしずみ)は、室町幕府の第11代将軍で、10代将軍足利義材が明応の政変で追放された後、1493年に細川政元によって将軍に擁立されました。彼は、室町幕府内の権力闘争の中で将軍職に就いたものの、その治世は政権内外の混乱と対立に悩まされました。
義澄の治世は、中央政権の弱体化が進む時期であり、特に細川政元を中心とした幕府内の有力大名が実質的な権力を握っていました。義澄は、将軍としての実権を取り戻すことができず、地方の大名たちが台頭する中で、幕府の影響力はさらに低下しました。また、義材が将軍職を取り戻そうとする動きも続き、義澄の地位は安定しませんでした。
1508年、義材が再び将軍に復帰する際に、義澄は将軍職を追われ、近江国(現在の滋賀県)へ逃亡しました。彼はその後も復権を目指しましたが、1511年に病に倒れ、復帰を果たせぬまま生涯を終えました。
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