ざっくり簡単解説!赤埴重賢とは?
赤埴重賢(あかばね しげかた)は、江戸時代前期の武士で、赤穂浪士四十七士の一人として知られています。1669年に生まれ、通称を源蔵と称しました。父は赤埴一閑、または塩山十左衛門とされ、母は高野忠左衛門の娘です。赤穂藩では馬廻役として200石を知行していました。
1701年、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易されました。重賢は堀部武庸らとともに急進的な仇討ち論者で、江戸に潜伏し、個人で吉良義央への復讐を狙っていました。1702年12月14日、吉良邸討ち入りでは裏門隊に属し、菅谷政利とともに屋内に突入しました。討ち入り後、重賢は大石良雄らとともに細川綱利の屋敷に預けられ、1703年2月4日、35歳で切腹を命じられました。戒名は刃廣忠劔信士で、泉岳寺に埋葬されています。
後年の創作では、「赤垣源蔵」の名で登場し、討ち入り前夜に兄の羽織を前に酒を酌み交わし別れを告げる「徳利の別れ」の場面が有名です。しかし、実際には重賢に兄はおらず、下戸であったとされています。
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