1839年-1862年(満24歳没)
酒井忠寛(さかい ただとも)は、江戸時代後期の大名で、出羽国庄内藩の第10代藩主としてその名が知られています。天保10年(1839年)、第8代藩主・酒井忠器の十二男として江戸に生まれ、若くして藩主としての責任を担うことになります。安政6年(1860年)、兄・酒井忠発の長男・忠恕が急逝したため、急遽嫡子となり、翌年には家督を継ぎました。文久元年(1861年)には従四位下に叙せられ、藩主としての務めを果たすべく、藩の統治に取り組みました。 忠寛の在任期間は短かったものの、彼は庄内藩の安定と発展に意欲を持って取り組みました。しかし、文久2年(1862年)、麻疹の流行によりわずか24歳で急逝します。正室や側室を持たず後継者がいなかったため、家督は甥の忠篤が継ぎ、庄内藩は幕末の動乱期を迎えることになります。忠寛の突然の死は藩内外に衝撃を与え、後継問題を引き起こしましたが、その若さと統治への真摯な姿勢は領民からも惜しまれたとされています。ざっくり簡単解説!請西藩とは?
請西藩(じょうざいはん)は、江戸時代後期に上総国(現在の千葉県木更津市請西)にあった小藩で、嘉永3年(1850年)に藩庁を貝淵陣屋から請西陣屋へ移し、林家が治めていました。3代目藩主の林忠崇は幕末の戊辰戦争で幕府側に付き、遊撃隊に加わるため自ら脱藩し、請西陣屋を焼き払って出陣しました。この行動により、新政府から所領を没収され、請西藩は改易されました。
戊辰戦争での行動により、林家は華族にも列せられず、戦後は非常に困難な生活を強いられました。林忠崇は長命を保ち、昭和16年(1941年)に94歳で亡くなり、幕藩体制の「最後の大名」としても知られています。請西藩は、改易された数少ない藩の一つとしてその名を残しています。
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