1680年-1752年(満72歳没)
伊達吉村(だて よしむら)は、江戸時代中期の仙台藩第5代藩主です。1680年、伊達宗房(のちの水沢伊達家)の子として生まれ、伊達綱村の養子となりました。1719年、養父である綱村から家督を譲り受け、仙台藩を継承しました。 吉村は、藩の財政再建に力を注ぎ、藩政改革を実施しました。新田開発や農業生産力の向上、財政管理の改善に取り組み、藩内経済を立て直しました。また、文化の保護にも熱心で、学問や芸術の振興に寄与し、藩校の設立を支援しました。彼の治世では、藩内の安定と発展が促進され、仙台藩の繁栄に大きく貢献しました。 吉村は幕府との関係も良好に保ち、仙台藩の影響力を維持しました。宝暦元年(1751年)、吉村は家督を次男の伊達重村に譲り、隠居しました。翌年、72歳で没しましたが、彼の治世は仙台藩の基盤をさらに強固にし、後の世代に安定をもたらしました。ざっくり簡単解説!西大平藩とは?
西大平藩(にしおおひらはん)は、江戸時代に三河国(現在の愛知県岡崎市)に存在した藩で、藩庁は西大平陣屋に置かれていました。この藩は、寛延元年(1748年)に大岡忠相が奏者番および寺社奉行に就任し、領地を4080石加増されることで1万石の譜代大名として成立しました。
藩の領地は三河国内の複数の郡にまたがり、安永元年(1772年)以降、藩領の変動はありませんでした。藩主の大岡家は、参勤交代を行わない定府大名であり、財政の安定に努めましたが、幕末の動乱期には新政府軍に恭順する形で旧幕府軍と対立しました。
明治2年(1869年)には版籍奉還が行われ、藩知事に任命された大岡忠敬はその後も藩政を維持しましたが、1871年の廃藩置県により西大平藩は消滅し、その後は西大平県や額田県を経て愛知県に編入されました。西大平藩の歴史は、江戸時代の地方政治や文化に大きな影響を与え、特に大岡忠相の改革は後の歴史にも評価されています。
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