生年不詳-645年
蘇我入鹿(そが の いるか)は、飛鳥時代の有力な豪族・蘇我氏の一人で、父・蘇我蝦夷の跡を継いで権力を握りました。彼は推古天皇や舒明天皇のもとで強大な勢力を持ち、645年には大臣として権勢を振るいました。643年、聖徳太子の子である山背大兄王を斑鳩宮で襲撃し、王族を排除することで政治的支配を一層強めました。しかし、この専横に対し、645年6月12日、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らが謀反を起こし、入鹿は乙巳の変で暗殺されました。この事件を契機に蘇我氏の権力は崩壊し、中央集権的な律令国家の基盤が形成されるきっかけとなりました。また、入鹿の死は大化の改新の発端ともなり、日本の政治体制に大きな変革をもたらしました。ざっくり簡単解説!藤原鎌足とは?
614年-669年(満55歳没)
藤原鎌足(ふじわら の かまたり)は、飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖です。元は中臣鎌足と名乗り、神事を司る中臣氏の出身でした。645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と共に蘇我入鹿を討ち、専横を極めた蘇我氏を倒しました。これにより「乙巳の変」が起こり、のちの大化の改新に繋がる変革が開始されました。鎌足は新しい政治体制の確立に尽力し、律令制度の基盤を築きました。669年、天智天皇から「藤原」の姓を賜り、内臣に任命されましたが、同年に病没しました。鎌足の子孫は藤原氏として権勢を強め、平安時代にかけて政治の中心に立つことになります。彼の業績は日本の歴史に深い影響を与え、藤原氏の繁栄の礎となりました。
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