1689年-1868年(廃藩置県まで)
小島藩(おじまはん)は、駿河国庵原郡小島村(現在の静岡県静岡市清水区小島本町)に陣屋を構えた譜代藩で、石高は1万石でした。初代藩主は、徳川綱吉の側近であった松平信孝で、1689年(元禄2年)に若年寄に昇進し、大名に列せられました。その後、2代藩主松平信治の時代に、1698年(元禄11年)に領地が駿河国内に移され、1704年(宝永元年)に小島村に陣屋を築きました。以降、滝脇松平家が11代にわたり藩主を務め、1868年(明治元年)の廃藩置県まで続きました。小島藩は、庵原郡・有渡郡・安倍郡にまたがる30か村を領有し、財政難に苦しみながらも、駿河半紙の専売制などを通じて財政改革を試みました。また、黄表紙作家として知られる恋川春町(倉橋格)は、小島藩の年寄(家老)を務めていました。藩庁である小島陣屋は、石垣を多用した城郭風の構造で、現在も石垣や建物跡が良好に残されており、2006年(平成18年)に国の史跡に指定されています。ざっくり簡単解説!蒲生忠郷とは?
蒲生忠郷(1602年~1627年)は、江戸時代初期の大名で、会津藩の第2代藩主です。父・蒲生秀行の死後、わずか10歳で家督を継ぎ、60万石を領有しましたが、幼少であったため母の振姫(徳川家康の娘)が後見人となり藩政を支えました。忠郷は、会津で領内の統治や城下町の発展に尽力し、経済やインフラの整備を行いましたが、内部では家臣間の対立が絶えず、藩内には不安定な状況が続きました。
1627年、忠郷は疱瘡により25歳の若さで没し、子を残さずに蒲生家は断絶の危機に。代わりに弟の忠知が後継者となりましたが、忠知もまた嗣子がないまま早逝したため、最終的に会津藩は加藤嘉明に引き継がれ、蒲生家は会津から姿を消しました。
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