1832年-1868年(満37歳没)
徳川慶篤(とくがわ よしあつ)は、江戸時代後期の大名であり、第10代水戸藩主です。父は第9代藩主・徳川斉昭、弟に第15代将軍・徳川慶喜がいます。1832年、江戸の水戸藩上屋敷で生まれ、幼名を鶴千代麿と称しました。1844年、父・斉昭が幕府から謹慎を命じられたため、13歳で藩主となりましたが、実権は後見人や重臣が握っていました。1852年、有栖川宮幟仁親王の第一王女・線姫と結婚し、公武合体を推進しました。しかし、1858年の安政の大獄では、父と共に幕府に抗議し、登城停止処分を受けました。1864年、藩内で天狗党の乱が勃発し、藩内対立が激化しました。慶篤は藩内の混乱を収拾できず、1868年、朝廷から諸生党討伐の勅命を受け入れましたが、その最中に水戸城で病没しました。享年37歳。彼の死後、藩内の対立はさらに深まり、水戸藩の衰退を招きました。ざっくり簡単解説!能登下村藩とは?
能登下村藩は、江戸時代前期に存在した藩で、1689年に成立しました。藩の初代藩主は鳥居忠英で、彼は改易処分を受けた信濃国の高遠藩から1万石を与えられ、能登国の下村に藩を立てました。藩庁は能登下村に置かれました。
藩の歴史は非常に短く、忠英は1695年に近江の水口藩に加増されて転封されることになり、わずか6年間で廃藩となりました。この廃藩により、藩の所領は幕府領となり、能登下村藩の存在は消滅しました。
能登下村藩の成立と廃藩は、譜代大名の家名を存続させるための特例措置として行われました。藩の短い歴史にもかかわらず、その影響は地域の歴史に刻まれており、藩主鳥居家の伝承が今も語り継がれています。
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