7世紀後半 - 1871年(廃藩置県まで)
備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の令制国の一つで、山陽道に属し、現在の岡山県西部に相当します。7世紀後半、吉備国が備前国、備中国、備後国に分割されて成立しました。国府は現在の岡山県総社市に置かれ、国分寺も同地に建立されました。一宮は吉備津神社(岡山市)とされ、古代から信仰の中心地として栄えました。備中国は、瀬戸内海に面し、温暖な気候と肥沃な土地を有し、農業や漁業が盛んでした。また、備中松山城を中心に城下町が発展し、江戸時代には松山藩や庭瀬藩などが置かれました。1871年の廃藩置県により岡山県に編入され、現在も歴史的遺産や文化が多く残り、観光地としても親しまれています。ざっくり簡単解説!肥後国とは?
7世紀末 – 1871年(廃藩置県まで)
肥後国(ひごのくに)は、現在の熊本県全域を領域とした令制国で、西海道に属していました。元々は肥前国と合わせて「火国(ひのくに)」と称されていましたが、7世紀末に分割され、肥後国が成立しました。国府は現在の熊本市に置かれ、国分寺も同地に建立されました。一宮は阿蘇神社(阿蘇市)とされ、古代から信仰の中心地として栄えました。肥後国は阿蘇山を中心とした火山地帯で、肥沃な土地を有し、農業や畜産業が盛んでした。また、天草諸島を含み、海上交通の要衝としても重要な役割を果たしました。戦国時代には加藤清正が統治し、熊本城を築城して城下町を発展させました。江戸時代には熊本藩が置かれ、細川氏が統治し、幕末までその体制が続きました。1871年の廃藩置県により熊本県に編入され、現在も歴史的遺産や自然景観が多く残り、観光地としても親しまれています。
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