1565年([years_ago]1565[/years_ago])
永禄の変(えいろくのへん)は、室町幕府第13代将軍・足利義輝が、1565年5月19日(永禄8年5月19日)に京都の二条御所で、三好義継や松永久通らの軍勢によって襲撃され、殺害された事件です。この事件は、室町幕府の権威が大きく揺らぐ契機となり、戦国時代の混乱をさらに深めました。義輝は剣豪将軍として知られ、剣術の達人であったものの、多勢に無勢で討ち死にしました。この事件の背景には、三好氏の勢力拡大や、幕府内の権力闘争がありました。永禄の変後、幕府の実権は三好氏や松永久秀らに握られ、将軍の権威は失墜しました。その後、足利義昭が第15代将軍として擁立されますが、織田信長との関係悪化により、最終的に室町幕府は滅亡へと向かいました。永禄の変は、戦国時代の権力構造の変遷を象徴する重要な出来事として、日本史に深く刻まれています。ざっくり簡単解説!織田信安とは?
生年不詳-1591年
織田信安(おだ のぶやす)は、戦国時代の武将で、尾張国上四郡の守護代として岩倉城を拠点に勢力を築きました。彼は織田伊勢守家(岩倉織田氏)の当主であり、織田信長の父・信秀の妹を妻とするなど、織田一族内で重要な位置を占めていました。当初、信長とは友好関係にありましたが、信秀の死後、所領問題や信長の弟・信行(信勝)との内紛により対立が深まりました。1556年の稲生の戦いでは信行側に加担し、信長と敵対しました。その後、長男・信賢を廃嫡し、次男・信家を後継にしようとしたため、信賢により岩倉城から追放されました。信賢も1558年の浮野の戦いで信長に敗れ、岩倉織田氏は滅亡しました。信安は美濃の斎藤氏に仕えましたが、後に信長に許され、晩年は安土の摠見寺の住職となり、1591年に没しました。
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