米沢藩(よねざわはん)は、1601年に上杉景勝が関ヶ原の戦いで敗北し、会津120万石から米沢30万石に減封されて成立しました。藩は外様大名の上杉家が治め、藩庁は米沢城に置かれました。米沢藩は当初30万石の大藩でしたが、後に15万石に減封されました。9代藩主の上杉鷹山(ようざん)の時代には、藩財政が深刻な状況に陥り、鷹山は藩政改革を断行しました。彼は財政再建のため、農業の振興や絹織物の専売制などを推進し、殖産興業政策を導入しました。鷹山の改革は大きな成功を収め、日本史における藩政改革の模範となりました。
幕末には、戊辰戦争で新政府側に属し、戦後に4万石が減封されました。1871年の廃藩置県により米沢藩は廃止され、米沢県に統合されました。その後も上杉家の影響は米沢の地域に残り、上杉神社や藩校の興譲館などが現在まで伝えられています。
ざっくり簡単解説!稲葉正休とは?
稲葉正休(いなば まさやす)は、江戸時代前期の美濃国青野藩の藩主で、幕府の要職である若年寄を務めた大名です。1640年に生まれた正休は、徳川綱吉の政権下で重職に就き、治水や藩政で活躍しました。しかし、貞享元年(1684年)、正休は江戸城内で大老の堀田正俊を刺殺する事件を起こしました。この事件は、治水事業での意見対立が原因とも言われ、正俊の暗殺後、正休はその場にいた老中たちによって即座に討ち取られました。事件は江戸城内での刃傷沙汰として幕府内に大きな衝撃を与え、稲葉家は改易となり、青野藩も廃藩されました。
事件に際して、正休は刀鍛冶の名匠・虎徹に特注の刀を作らせ、堀田に確実に一撃を与えるために入念な準備を行っていたと伝えられています。この事件は、後に発生した赤穂事件とも比較され、武士の覚悟を示す例として語り継がれました。正休の行動は多くの議論を巻き起こし、幕府における権力闘争の一端を表しているとされています。
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