1618年([years_ago]1618[/years_ago])
稲垣平馬事件(いながきへいまじけん)は、江戸時代初期に播磨国坂越(現在の兵庫県赤穂市坂越)で発生した事件です。姫路藩主・本多忠政の家臣であった稲垣平馬は、大坂夏の陣での功績に対する恩賞に不満を抱き、主家を離れて坂越から紀州(現在の和歌山県)へ逃れようとしました。これを受けて、忠政は赤穂藩にも協力を求め、追手を差し向けました。追い詰められた稲垣は、坂越の大道井付近で赤穂藩士・澤野市郎右衛門と一騎討ちとなり、討ち取られました。この際、稲垣は自ら火を放ち自害したとも伝えられ、坂越の町は全焼する被害を受けました。この事件は、当時の藩士の不満や脱藩、そしてそれに伴う地域社会への影響を象徴する出来事として知られています。ざっくり簡単解説!矢橋藩とは?
矢橋藩(やばせはん)は、江戸時代に存在した藩で、伯耆国八橋郡(現在の鳥取県琴浦町八橋)に位置していました。藩は慶長14年(1609年)に設立され、初代藩主は市橋長勝です。彼は美濃国から移封され、2万1300石を与えられて藩を立ち上げました。
藩の本拠地は八橋城で、長勝は城を中心に藩政を行いました。矢橋藩は短命で、元和2年(1616年)に長勝が転封されると、藩は廃藩となりました。その後、藩の領地は鳥取藩の一部として管理されました。
矢橋藩はわずか数年の存在でしたが、その名は地域の歴史に刻まれ、八橋城跡は現在も観光名所として残っています。藩主家の影響は地元の文化にわずかですが影響を与え、今なおその名残を感じさせる場所として重要です。
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