1632年-1653年
出羽丸岡藩(でわまるおかはん)は、江戸時代初期に出羽国田川郡丸岡(現在の山形県鶴岡市丸岡)に存在した外様藩で、藩庁は丸岡城に置かれました。1632年、肥後熊本藩主であった加藤忠広が改易され、庄内藩主酒井忠勝の預かりとなった際、忠広には1万石が与えられ、丸岡藩が成立しました。しかし、藩としての支配機構や支配権はほとんどなく、実質的には庄内藩が藩政を掌握していました。忠勝は忠広を哀れみ、毎年米100俵を支給していたと伝えられています。1646年、忠広の居所および家臣の屋敷が全焼する火災が発生しましたが、京から建物を取り寄せて再建されました。1653年、忠広が死去すると、丸岡藩は廃藩となり、その領地は幕府領および庄内藩領となりました。ざっくり簡単解説!玉縄藩とは?
玉縄藩は、江戸時代に相模国鎌倉郡玉縄(現在の神奈川県鎌倉市)に存在した藩です。藩の設立は1619年で、初代藩主は松平正綱であり、石高は2万石でした。藩庁は玉縄城の南山麓に設置された玉縄陣屋に置かれました。
玉縄藩は、もともと後北条氏が築いた城を起源としており、豊臣秀吉による小田原征伐後、徳川家康の側近である本多正信がこの地を治めることになりました。その後、松平氏がこの地を引き継ぎ、藩主として地域の治安や経済を担当しました。
しかし、元禄16年(1703年)に3代藩主・松平正久が上総国大多喜藩へ転封されることとなり、玉縄藩は廃藩となりました。玉縄城自体はその後も重要視されましたが、1719年には一国一城令により廃城となりました。
玉縄藩の歴史は、江戸時代における地方政治の変遷や、藩主の権力を理解する上で重要な事例とされています。また、現在も玉縄城跡は地域の歴史的な名所として残り、観光名所となっています。
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