1159年([years_ago]1159[/years_ago])
平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の1159年(平治元年)に発生した内乱で、後白河上皇の近臣間での権力争いが背景にあります。この乱では、平清盛と源義朝が対立し、保元の乱(1156年)に続く形で武士の勢力が大きく動きました。清盛は藤原通憲と結び、貴族社会への影響力を強めようとし、義朝は藤原信頼と協力してこれに対抗しました。戦闘は京都市内で行われ、義朝は敗北し、伊豆に落ち延びようとするも討ち取られ、その子である源頼朝が流罪となりました。この乱によって平清盛が権力を掌握し、平氏政権が確立され、貴族社会に対して武士が台頭する時代の始まりとなりました。平治の乱は、その後の源平合戦(治承・寿永の乱)への布石ともなり、武家政権の形成に大きく寄与した日本史の重要な転換点として位置づけられています。ざっくり簡単解説!源頼家とは?
源頼家(みなもとの よりいえ)は、鎌倉幕府第2代将軍で、初代将軍・源頼朝と北条政子の長男です。1182年に生まれ、幼名を万寿といいました。頼朝の死後、1199年に征夷大将軍として家督を継ぎ、鎌倉幕府を統率しました。
頼家は武芸に秀で、特に弓術に優れていましたが、政治面では未熟とされ、御家人たちとの関係が悪化しました。母方の親族である北条氏と、妻の実家である比企氏との間で権力闘争が激化し、内部の対立が深まります。1203年、頼家が病に倒れたことを機に、北条氏は比企氏を滅ぼし、頼家を伊豆の修禅寺に幽閉しました。翌年、頼家は修禅寺で暗殺され、享年23歳でした。
頼家の死後、弟の源実朝が第3代将軍に就任し、以降は北条氏が幕府の実権を握るようになりました。頼家の短い生涯は、鎌倉幕府初期の権力闘争とその激動を象徴しています。
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