1603年-1661年(満57歳没)
徳川頼房(とくがわ よりふさ)は、江戸時代初期の大名で、常陸国水戸藩の初代藩主として知られています。1603年、徳川家康の十一男として伏見城で生まれ、母は於万の方(養珠院)です。幼名は鶴千代といいました。 1606年、3歳で常陸下妻10万石を与えられ、1609年には水戸25万石に転封されました。その後、3万石の加増を受け、最終的に28万石を領しました。頼房は水戸城の修築や城下町の整備、領内の検地を実施し、水戸藩の基礎を築きました。また、学問を奨励し、神道の研究にも熱心で、後の水戸学の発展に影響を与えました。 1661年、江戸で死去し、享年59歳でした。法名は威公で、常陸太田市の瑞竜山に葬られました。頼房の長男・頼重は讃岐高松藩主となり、次男・光圀が水戸藩を継ぎました。光圀は後に「水戸黄門」として知られ、徳川頼房の治世は水戸徳川家の礎を築いた重要な時期とされています。ざっくり簡単解説!浅川藩とは?
浅川藩(あさかわはん)は、1662年に陸奥国(現在の福島県石川郡浅川町)で本多忠以が1万石を分与されて成立しました。白河藩主であった本多忠義の三男・忠以が藩主となり、藩庁を浅川陣屋に置きました。浅川藩は設立後、忠以の弟である本多忠晴が継ぎますが、1681年には三河国伊保藩への移封が命じられ、その際に浅川藩も廃藩となりました。
この藩は、設立から廃藩までの期間が非常に短く、藩主の移封によって消滅しましたが、浅川陣屋を中心とした地域の行政や領地管理の一例として知られています。
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