1560年-1600年(満40歳没)
石田三成(いしだ みつなり)は、戦国時代末期から安土桃山時代にかけての武将であり、豊臣政権下で重要な役割を果たした人物です。石田三成は、豊臣秀吉の家臣として内政面で力を発揮し、秀吉の死後も豊臣家の存続を守るために尽力しました。1600年に起きた関ヶ原の戦いでは、徳川家康に対抗する西軍を率いましたが、家康の東軍に敗れ、三成自身も捕らえられて処刑されました。 石田三成は、その才覚から内政における名将として名を残していますが、合戦においては敗者となり、結果的に豊臣家の滅亡へと繋がりました。ざっくり簡単解説!池田恒興とは?
1536年-1584年(満48歳没)
池田恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての織田家重臣で、織田信長の乳兄弟として信長の幼少期から側近として仕えました。1536年に尾張国で生まれ、信長の命を受け、各地で軍功を挙げていきました。特に木津川口の戦いなどでは、信長に重用され、織田軍の重要な戦力として活躍しました。
信長が本能寺の変で討たれると、恒興は清洲会議で信長の孫・三法師を後継者に推し、羽柴秀吉の勢力を支持します。その後、恒興は秀吉に従って1583年の賤ヶ岳の戦いで織田信孝に勝利し、功績を称えられて摂津国の要地を与えられ、秀吉陣営内でさらに影響力を増しました。
1584年の小牧・長久手の戦いでは、秀吉方として徳川家康と対峙します。戦闘中、恒興は三河への進軍を進言し、徳川軍の背後を突こうとしましたが、家康の反撃に遭い、長久手で激戦の末に討ち死にしました。恒興の戦死と共に、息子の池田元助も戦場で命を落とし、その勇猛な最期は後世に語り継がれています。恒興の死後、家督は次男の池田輝政が継承し、池田家は江戸時代にかけて大名としての地位を確立しました。
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