1560年-1600年(満40歳没)
石田三成(いしだ みつなり)は、戦国時代末期から安土桃山時代にかけての武将であり、豊臣政権下で重要な役割を果たした人物です。石田三成は、豊臣秀吉の家臣として内政面で力を発揮し、秀吉の死後も豊臣家の存続を守るために尽力しました。1600年に起きた関ヶ原の戦いでは、徳川家康に対抗する西軍を率いましたが、家康の東軍に敗れ、三成自身も捕らえられて処刑されました。 石田三成は、その才覚から内政における名将として名を残していますが、合戦においては敗者となり、結果的に豊臣家の滅亡へと繋がりました。ざっくり簡単解説!武田信吉とは?
1583年-1603年(満20歳没)
武田信吉(たけだ のぶよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名で、徳川家康の五男として天正11年(1583年)に浜松で生まれました。幼名を福松丸といい、母は甲斐武田氏一族の養女である下山殿(於都摩の方)でした。信吉は幼少期から家康のもとで養育され、武田家の名跡を継ぐことを許され、武田信吉として甲斐武田氏の再興を期待されました。
家康の関東移封後、信吉は下総国小金城3万石を与えられた後、佐倉城10万石、さらに常陸国水戸25万石に加増され、徳川家の一翼を担いました。しかし、慶長8年(1603年)、わずか20歳で病に倒れ、子もなく若くして死去したため、武田家は再び断絶することとなりました。彼の早逝は徳川家にとっても惜しまれるものであり、茨城県那珂市の常福寺に墓が残されています。
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